著者
山川 法子
出版者
日本教育方法学会
雑誌
教育方法学研究 : 日本教育方法学会紀要 (ISSN:03859746)
巻号頁・発行日
vol.32, pp.13-24, 2007-03-31

本研究では,大人から高い評価を受ける児童について,批判的な観点から再検討する必要を示すことを試みる。そのために,小学生対象の演劇・音楽活動ワークショップにおいてどの大人からも高い評価を受けるある児童に着目し,その行動とそれに対する大人の評価を詳細に記述した。その結果,この児童の行動の特徴として,1)指導者や他の児童の話を常にきちんと聞き,きちんと聞いていることを態度で表す,2)指導者からの指導を確実に実現するための提案をし,さらに自発的に練習方法の工夫を提案する,3)他の児童の意見も尊重し自分の提案に固執しない柔軟な対応をする,を抽出した。その上で,これらの行動の特徴に対し,破綻した「よい子」に関するこれまでの研究知見を背景として,次の3点を問題として指摘した。1)楽しさの身体的な感情表出が見られない,2)経過を楽しむのではなく結果の観点からの行動が顕著である,3)周囲への配慮に伴う自己主張の抑制を行っている。そしてこれらのことから,この児童の「よい子」行動が,将来破綻する可能性を否定できないことを示した。以上の検討から,本稿では,一見何も問題がないと思われるだけでなく,むしろ大人から高い評価を受ける<いい子>の行動に対しては,これまでのように肯定的に理解するだけでなく,それが破綻に至るような「よい子」としての問題を潜在させていないかどうか,つねに否定的・批判的な側面を含めた多面的な視点からの検討をも試みる必要があると結論した。
著者
広石 英記
出版者
日本教育方法学会
雑誌
教育方法学研究 : 日本教育方法学会紀要 (ISSN:03859746)
巻号頁・発行日
vol.31, pp.1-11, 2006-03-31
被引用文献数
3

従来の学校教育の底流にある客観主義的知識観は,実在的真理(普遍的正答)を措定してその個人的獲得を学習と見立てていたといえよう。これに対して社会構成主義は「知識は人々の社会的な関係性の中で構成される」と考える。この考え方に立つと,学習とは知識を受動的に記憶する個人の内的プロセスではなく,学習者が他者との相互作用を通じて知識を構成していく社会的行為ということになる。社会構成主義の知識観を学校教育の文脈に翻訳すれば,教育内容の意味は,所与の知識として教科書の中や教師の頭の中に存在するものではなく,教師と子ども,あるいは子どもどうしのコミュニケーションによって生成されるものであり,相互主体的な実践があって初めて構成されることになる。このような社会構成主義の持つ知識観を理解することによって,われわれは,ワークショップという学びのスタイル(参加型学習)の持つ,豊かな教育的意義を理論的に検証できる地平に立つことができる。その意味で,本論文は,これまで両者の関係が意識されずに,それぞれが独自な展開を見せてきた二つの出自が異なる生産的思考(社会構成主義)と生産的手法(ワークショップ)のより豊かな結びつきを育み,新しい学びの世界を開いていくための最初の試みである。
著者
大下 卓司
出版者
日本教育方法学会
雑誌
教育方法学研究 : 日本教育方法学会紀要 (ISSN:03859746)
巻号頁・発行日
vol.36, pp.121-132, 2011-03-31

本稿の目的は数学教育改造運動(以下,改造運動)の契機となったペリーの数学教育論を,その核心にある「有用性」概念を軸に据えて,明らかにすることである。まず,1901年の英国学術協会の年次大会において,ペリーが講演「数学の教育」で提起した8点の「有用性」を概観した。次に,ペリーの実践の歩みに即した教育論の形成過程から「有用性」の背後にある実践・理論を明らかにした。さらに,古典としての性格が顕著に表れていた幾何学とペリーが考案した方眼紙の使用に焦点を絞って「有用性」に基づいたカリキュラムを検討した。最後に,ペリーの数学教育論が当時のイギリスでどのように議論され,数学教育改革に至ったのかを描いた。改造運動は,これまで日本では関数や微分積分学など教育内容が近代化された点に意義があるとされてきた。しかしながら,古典に基礎をおく旧来の数学教育と科学を基礎とするペリーの数学教育論との相克は,教育観の変革をも意味していた。ペリーは「有用性」を軸に据え,科学の基礎をなす数学科による実質陶冶を打ち立てた。この時,教育内容の近代化だけでなく,カリキュラム原理の転換,子ども観・学習観の転換がその背景にあった。改造運動は必ずしもペリーが思い描いた通りに進まなかったものの,内容論にとどまらず,教育の近代化までも志向していた点に意義があった。
著者
田中 伸
出版者
日本教育方法学会
雑誌
教育方法学研究 : 日本教育方法学会紀要 (ISSN:03859746)
巻号頁・発行日
vol.36, pp.39-50, 2011-03-31

本論文は,シティズンシップ教育実践とその授業構成論の違いを市民性意識の関係から帰納的に明らかにすることで,学習環境を分析する方法論を検討するものである。本研究は,従来一般的に採られてきた諸外国で実施しているシティズンシップ教育に関わるカリキュラムや教材,授業分析から演繹的な方法で学習原理やその実効性を明らかにするという方法論ではなく,子どもの持つ市民性意識が教師による教育実践とどの程度接近しているかに焦点を当て,帰納的にシティズンシップ教育実践の違いとその論理を解明する。研究の手続きは,まず研究方法論を明確にする。次に同じ題材を扱った英国と日本の市民性教育実践を分析,最後に子どもへの市民性意識調査の分析結果をもとに両国の授業構成論の相違並びにその根拠を検討した。分析の結果,まず両国のシティズンシップ教育実践が大きく異なっており,そこには両国の市民性意識の違いがあることを明らかにした。具体的には,政治的市民育成を求める英国シティズンシップ教育は,社会で行われている行動を学校で再現し実際に議論・活動する必要から,実態的活動に基づく授業構成であること。日本のシティズンシップ教育は,子ども達の判断基準が儒教的道徳などの非論理的観点に操作されており,教育にて分析的思考へと修正・改善・発展させてゆく必要性から,論理的思考育成へ向けた分析的活動に基づく授業構成が組織されていることを明らかにした。
著者
羽山 裕子
出版者
日本教育方法学会
雑誌
教育方法学研究 : 日本教育方法学会紀要 (ISSN:03859746)
巻号頁・発行日
vol.37, pp.59-69, 2012-03-31

本稿では,2004年の障害者教育法(Individuals with Disabilities Education Act)改訂以降にアメリカ合衆国において普及した,学習障害児支援システムであるRTIに焦点を当て,RTI登場以前の論点も視野に入れつつ,その意義と課題を考察した。RTI以前に学習障害児診断の中心であったディスクレパンシー・アプローチは,診断過程におけるバイアスの影響や,早期の診断が不可能であることなどが問題視されていた。そこで新たに提唱されたRTIにおいては,徐々に専門性・個別性の高まる複数の層による指導を行い,指導を経ても学力の回復しない児童が学習障害児であると定められた。そこでは,学力の回復は,カリキュラムに基づく測定(CBM)のデータに基づいて下された。検討の結果,RTIは従来の診断方法ディスクレパンシー・アプローチの問題点を概ね乗り越えており,有効な方法であると言えた。しかし一方で,心理検査を用いないことによる不正確な診断を行ってしまう可能性や指導の画一化を招く可能性を批判されていた。このような批判の妥当性と克服可能性について考察し,心理検査の使用はRTIにおいても否定されておらず,むしろ読み書きスキルの検査を診断過程に組み込むか否かが批判者の主張との相違点であること,指導の画一化については,第一層においてその危険性が否定できないことを指摘した。
著者
塩路 晶子
出版者
日本教育方法学会
雑誌
教育方法学研究 : 日本教育方法学会紀要 (ISSN:03859746)
巻号頁・発行日
vol.23, pp.49-57, 1998-03-31

The purpose of this paper is to study the principle of children's recognition, understanding focused on G. H. Mead's Interactionism. This study will be the starting point for clarifying the dynamism of teaching in "teacher-student" educational relationship. The theory of G. H. Mead in this paper is one in the early 20th century. Through studying Mead's theory, I may examine the scientific knowledge in the interaction between "experience" and "science", and draw suggestion about the principle of children's "understanding". Anyone knows that Mead was one of the American Pragmatists around the turn of the century and had great influence later on the Symbolic Interacionism. As yet one have researched on Mead's theory in the field of philosophy or sociology. In the pedagogical field, only Mead's self-formative theory is quoted a little. It's important to study early works for searching possibility of Mead's educational theory, because the self theory may be based on the early educational works of Mead. Then,in order to grasp the principle of children's understanding, this paper brings focus into, firstly, the criticism to the separation of "science" and "experience", secondly, the generation of meaning in the interacion of "science" and "experience", and of student and teacher. This aims to grasp the educational fundamental perspective and draw the suggestion for the principle of understanding.
著者
多和田 真理子
出版者
日本教育方法学会
雑誌
教育方法学研究 : 日本教育方法学会紀要 (ISSN:03859746)
巻号頁・発行日
vol.28, pp.83-94, 2003-03-31

本稿の目的は,上田万年の『作文教授法』(1895年)を素材に,言語と教育の結びつきを検討することにより,上田が明治期の小学校における作文教育に付与しようとしていた役割を論じることである。上田は「普通教育」と「国語」という2つの概念の関わりにおいて「作文教授」を構想していた。上田は「普通教育」に,「社会」における「人民の教育」と,「国家」における「国民教育」という,2つの側面を見出していた。それは「国語」がもつ2つの側面,すなわち「社会」の変化に応じて改良可能な「道具」としての面と,「国民」に与えられるべき固定的な「道具」としての面とに相互に関係していた。小学校の作文教育に対して上田が提起した新しい観点は,第1に,従来の教養に価値を認めず,かわりに<思想→言葉→文字>の変換に価値をおくということである。第2に,「言葉」や「文体」の多様性を認め,他者の「言葉」を聴き,「文章」を読むことによって他者の存在を認識することである。だがそれらは,上田が提起した第3の点,すなわち言語に一定の「標準」を求め,その「標準」に近づく階梯と子どもの「心理発達」とを結びつけ学校教育の段階として位置づけることにつながった。言語の共有という上田の理念が,「作文教授」論をつうじて,言語の標準化へと結びついたのであった。
著者
保坂 裕子
出版者
日本教育方法学会
雑誌
教育方法学研究 : 日本教育方法学会紀要 (ISSN:03859746)
巻号頁・発行日
vol.29, pp.37-48, 2004-03-31

教師の仕事活動は,近年展開されている教育改革をはじめとして,子どもたちや家庭状況,社会状況の変化,学校に対する社会的ニーズの変化に伴い,大きな転換期をむかえている。そこで本研究では,「総合的な学習の時間」のカリキュラム開発を進めるある小学校教師チームに着目し,実践において教師の仕事活動がいかに変化しているのか,またどのようなことが課題となっているのかについて検討することを通して,教師の仕事活動を転換する可能性を探ることを目的とした。研究方法論として,文化-歴史的活動理論を基盤とする「発達的ワークリサーチ」を採用した。当小学校における問題状況として,(1)学校外活動やグループ活動を進めるために,充分な教師の人数が確保できない,(2)総合学習をめぐる教師間の共通理解の不足,の二点があげられた。一点目については,教師を含む大人の人数確保のために,既存の活動形態の変革,外部組織との連携が試みられた。二点目については,教師間のコミュニケーション形態を転換していく必要があることが指摘され,解決は次の課題となった。教師チームは,既存の仕事活動の境界を再定義し,新たな文化的ツールを媒介させることによって活動システムの転換へと向かった。教育実践研究の今後の課題は,実践現場において起こっているこのような教師の学習活動に着目し,新たな転換の契機をとらえ,実質的変化を促進していくことなのではないだろうか。
著者
奥村 直子
出版者
日本教育方法学会
雑誌
教育方法学研究 : 日本教育方法学会紀要 (ISSN:03859746)
巻号頁・発行日
vol.35, pp.35-45, 2010-03-31

ピアノ技術の習得方法は,一般に教授-指導型のレッスン形式で行われ,学習者は家庭にあってピアノの練習に多くの時間をかけることが,演奏技術向上のためには絶対の条件である。しかし子どもにとってはこの練習が苦痛で,ピアノ嫌いになり途中で止めてしまう例も少なくない。ピアノ教師でもある筆者自身も,子ども時代にピアノの練習が苦痛だった経験を持つ。ピアノ技術習得に伴うこれらの問題を乗り越え,子ども自身がピアノを弾く楽しさを感じ,ピアノを弾きたいと自発的にピアノに向かう動機形成は,如何にしたら実現できるかが筆者の研究課題である。その解決方法を見いだすために,小川の「見てまねる学習」を基本理念に据え,9年間にわたり観察対象児家族への参与観察を行ってきた。この観察を通し,子どもたちが自発的にピアノを弾き,遊び行動としてピアノを楽しみ「音楽的コミュニケーション」が豊かに展開する経緯を観察することができた。レッスン室と家庭の観察を通して得た音楽的成長過程の事例を,LaveとWengerの「正統的周辺参加論」を援用し,読み解いた。分析にあたり,事例の音楽的表現の相互の関係性を,岩田の言う「ノリ」の視点で分析する。本稿では特にB男のピアノに対しての動機形成が如何にしてなされていくのかを中心に検証したい。
著者
桂 直美
出版者
日本教育方法学会
雑誌
教育方法学研究 : 日本教育方法学会紀要 (ISSN:03859746)
巻号頁・発行日
vol.35, pp.59-70, 2010-03-31

本稿は,学校教育の枠組みにおいて生徒の芸術表現の力を育てる授業方法として「ワークショップ授業モデル」を再構成し,アクションリサーチを通して,学校教育における授業モデルとしての有効性を検証しようとするものである。近年,幅広い教育場面で支持を集めている「ワークショップ」は,「参加体験型のグループ学習」と理解され,授業者の役割が明確でないために,学校教育の場において学びの深まりを保障する授業モデルとなり得ていない。本稿では,米国の高等教育においてアカデミックな学びを追求したワークショップ実践の源流としての「クリエイティブライティング」の授業を,参加観察と学生のインタビューによって分析し,授業における教師の役割を規定し,さらに授業モデルとしてワークショップを中学生の授業への適用のために再構成した。次に,このモデルを中学校の表現の授業に適応するアクションリサーチを行い,生徒の学びと授業者の意識の転換を,自由記述とインタビューを通して分析した。ワークショップ授業の成立には,教師が高い内容知や技能を持ち,自己の鑑識眼と批評を惜しみなく開示することで,生徒から見てモデルとして機能していることが重要であることが示された。また,学び手を評価主体として位置づけ,学習者における「鑑識眼と批評」の力の成長を学習内容とすることで,近代の「学校化された学び」が編み直される様相が明らかになった。
著者
笹野 恵理子
出版者
日本教育方法学会
雑誌
教育方法学研究 : 日本教育方法学会紀要 (ISSN:03859746)
巻号頁・発行日
vol.21, pp.159-168, 1996-03-31

The Sociology of Education has undergone a far-reaching change of emphasis in recent years. The change was first heralded by the publication of Knowledge and Control (1971) edited by M.F.D. Young and, whilst the contributions to the book come from widerly diverse perspectives, two in particular serve to mark a considerable break from the most previous studies of education. The first is the application of the sociology of knowledge to education. And the second is the fleuence of phenomenology. G. Vulliamy spelled out the implications of viewing music teaching from the perspective of the New Sociology of Education. Using Young's discussion of the 'stratification of knowledge', Vulliamy has attempted to illustrate the cultural clash-a clash between subject-based high status knowledge ('serious' music), which is the musical culture of the school, and everyday low status knowledge ('pop' music), which is the musical culture of most of the school pupils. It is argued that music teaching is particularly good example of how differing definitions of what counts as music in the school setting are linked with different criteria of success, different relationships between teacher and taught, and different teachers' perceptions relating to intelligence, family background and musical ability. The purpose of this paper is to construct a framework for a theory on curriculum research in music education from the viewpoint of the New Sociology of Education. Vulliamy has attempted to show that the New Sociology of Education provided a useful perspective from which to interpret the failure of music teaching. We attempt to analyze G. Vulliamy's theory of 'culture clash' in music education, based on the New Sociology of Education. This analysis is enabled us to give the redefinition of 'school knowledge' to music education. Furthermore, it leads us to propose the significance of Vulliamy's theory in music education, particular on music curriculum research. By reviewing the Vulliamy's theory, we propose that the perspective of the New Sociology of Education is significant in constructing a theory of curriculum research in music education.
著者
姫野 完治
出版者
日本教育方法学会
雑誌
教育方法学研究 : 日本教育方法学会紀要 (ISSN:03859746)
巻号頁・発行日
vol.28, pp.175-186, 2003-03-31

教師教育を教員養成と現職教育の連続と捉える考え方は,世界的に共通したものとなっている。しかし,わが国では必ずしも連続していない。その背景には,教員養成カリキュラムと教員採用試験が時期的に重なる問題,また,臨時的任用教師の増加によって現職研修を経験しない教師が存在する問題などがある。教師教育を教員養成から現職教育まで連続したものとするためには,その接点をいかに改善するかが大切といえ,その一つの改善策として,教員採用試験の終了後から学校現場に赴任する前までの期間に,採用前研修を取り入れることが考えられる。しかし,これに関する先行研究はほとんど存在していない。そこで本研究では,教員採用試験に合格した学生と,現職教師を対象として,採用前研修のあり方に対する意識調査を実施した。その結果,採用前研修に対して学生と現職教師の双方が望んでいることとして,教師と話す機会,学校現場へ訪問する機会,スキルやテクニックを学ぶ場,学級経営に関して学ぶ場が明らかになり,またその研修は,採用試験の終了後から学校現場へ赴任するまで継続的に実施することが望まれていることがわかった。
著者
水野 正朗
出版者
日本教育方法学会
雑誌
教育方法学研究 : 日本教育方法学会紀要 (ISSN:03859746)
巻号頁・発行日
vol.34, pp.1-12, 2009-03-31

本論文では,文学テクストを教材とした国語の授業において,児童生徒から提出される多様な解釈をどのように扱うべきかという問題を,現代文学理論や記号論を手がかりに理論的に検討した。その結果,イーザーの読書行為論から,文学テクストは多様な解釈への潜在的な可能性を持つが,その可能性の幅はテクストに内在する戦略によって一定の幅に制限されていること,エーコの記号論から,文学テクストは文化的・社会的共同体における間主観的な合意の原理によって意味が規定されること,フィッシュの「解釈共同体」の理論から,解釈間の相互規定関係が重要であることが示唆された。さらに,スコールズの文学教育理論から,広義の「読み」のプロセスの中に「読むこと」「解釈」「批評」という3層が含まれ,それらが相互にかかわり合いながら,読みを動的に発展させていくことが示された。学級という学習共同体のなかで営まれる読みにおける個人思考と集団思考の関係は,必要となる読みの課題の特性によって動的に変化しつつ発展する。児童生徒と教師が,多様な解釈の可能性を前提にして討論することで,個々の認識を包含しつつ高いレベルで調和した読みが社会的に構成される。そして,その共同体内で開示され共有されたテクストの経験が,学習者の経験の蓄積に組み込まれることで,学習者それぞれの自己発見や自己変容を誘い,一人ひとりの主体的な読みを開くのである。